伝統やマナー(規範)は私たちを守る

 

cc056 近くの古くからあるお風呂屋さんのオヤジさんが嘆いていた。「最近の若いものは、フロの入り方を知らん。掛り湯をしない。」また最近の子ども達は、「セキをしても口に手をあてない子が多い。」という話も聞く。これらはいずれも公衆衛生上の問題を持っており、病気の伝染を防ぐという意味があると同時に、他人を思いやる心の表れでもある。他に似たようなことはいくつもあるが、これらは私達が古くから、社会生活を営む上での規範として、親から子へ、そして地域社会の中でも伝えられつづけてきた伝統でもある。ついこの間までは、人様の前で自分だけ物を食べたり、まして歩きながらや電車やバスの中で飲み食いしないという、規範が民族としての伝統として不文律に存在していた。しかし市場経済優先主義の波に乗り、24時間営業のコンビニや自販機の氾濫は、これらの美しくも慎ましい伝統習慣を流し去ってしまった。いつでもどこでも、少しおなかがすいたり口寂しくなると、こらえ性がなく、ジュースやスポーツドリンクやスナック菓子を口にする子ども達が増えている。

 その結果、肥満や、糖分の処理能力の低下である耐糖能の低下をきたしている子どもが増えている。清涼飲料水の入ったボトルを首から吊るして、始終チビチビ飲みながら街を歩くのがファッションのようになっている。これらの子どものうち、突然高血糖や酸血症をきたし、意識障害などを呈する「ペットボトル症候群」なるものが新しい病気として注目されるようになった。

 私達は、伝統や規範をうっとうしいものと思いがちであるが、よく考えると、逆にそれらのものが私達を守ってくれていたのだということに気が付く場合が多くある。伝統は創造に対立するものではない。創造は伝統なしには有り得ない。単なる保守というのは、伝統が真に求めたその生命が涸渇した単純な形式主義である。「伝統の内に、永遠に生産的なものを見定めることを知らねばならぬ。」とロダンは言っている。また伝統は、親から子へ、社会の中での言い伝え(伝承)を必要とする。そして伝承は伝統によって生かされるものでなくてはならない。

(根岸宏邦)

 

 家族とのかかわり   投稿日:2006/09/01